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更新日 2019-06-20 | 作成日 2019-06-20

趣味のひろば-39


江部建築設計事務所  江部 健二

「20才の放浪~建築との出会い」


 40年も昔の事ですが、僕は高校の3年間バイクに夢中になり、これが天職と信じ卒業後バイクのメカニックになりました。
 1年が過ぎ仕事をある程度覚えたころ、自分がやりたいことを見失っていました。そんな時、先輩がドイツの自動車ディ-ラ-に勤めていて、悩みを相談すると「こっちへ来ないか、何とかなるよ」と、その軽い一言を信じ友人を誘い2人で日本脱出。準備もそこそこ言葉は「アイアムジャパニ-ズ」が言える程度、持っていた車を売って旅費にあて、日本を脱出しました。片道キップ+αのお金しかなく退路を断った思いと寂しさで涙が出たのを覚えています。当時、最も安い航路だった横浜から船に乗ってナホトカ、汽車でハバロフスク、一部で飛行機を使い10日くらい?でドイツの先輩の所へ辿りつきました。一緒に脱出した友人はミュンヘンの知人のところ行くことになっていて途中で別れました。
 その頃、1ドル360円の時代、欧米で半年働くと中近東、アジアで半年以上放浪の旅ができる時代でした。
 先輩の勤務先は自動車ディ-ラ-でホンダのバイクも扱っており、日本人のメカニックがいるということで営業上有利だったようです。先輩は、僕と入れ替わるように僕を残して旅にでていってしまいました。会社も日本人は1人いればよいとの事、残された私は1人で言葉もチンプンカンプン、孤独感で苛まれ苦しい時期でした。廻りの人たちに支えられ数か月が過ぎ、少し慣れたころ先輩が帰ってきました。


ドイツの自動車ディーラーで

 さあ、今度は自分の番とばかりに、パイプリュックに寝袋を乗せ時期は夏、北欧へ旅にでました。お金が無いから宿は(YH)ユ-スホステル、時には寝袋で野宿、交通機関は原則ヒッチハイク(汽車やバスにも乗った、オカマにも襲われたけど無事でした)で辛くなってオランダのコペンハ-ゲンで引き返してきた。
 また、ドイツのディ-ラ-で2か月くらい(40年前で記憶もぼやけてきた)働かさせて頂き、今度は廃車寸前のオンボロ車をもらった。そこで日本を出たときの友人を誘い2人でアフリカ大陸のキリマンジャロへ行こうじゃないかとの話になり「バカか、どこにあるのか分かっているのか?ま-行けるところまで行ってみようよ!」と、そんな話があったと記憶している、怖いもの無し。そして一路、アフリカへ向かいました。当然節約が必要、宿泊は車中、食事は自炊、日本を出て10か月近くが経っていました。

「建築との出会い」
 建築等全く興味なかった僕ですが、旅を通して歴史ある文化や建物に触れ、興味が湧くようになってきました。とりわけ教会建築の感動が印象に残っています。中でも衝撃を受けたのはサグラダファミリア教会(アントニオガウディ設計)でした。みなさんご存知、とうもろこしを4本立てたような工事中の教会です。見学路で半地下のような所に入っていくと洞窟の一部をガラスで仕切ったような制作室があり、白衣を着たスタッフが5~6人だったかな?模型を作ったり、何かを描いたりしていた。「あー“ここでこうやって考えたものが形になっていくのか」と、それがカッコいいというか、その制作室のシ-ンが建物以上に感動し衝撃を受けたことを覚えています。これをきっかけに私の建物を見る目が変わり建築に興味を持つようになりました。

          サグラダファミリア協会           サグラダファミリア教会の制作室

 さて、旅のほうはバルセロナを後にして6~7日後に車が雨でスリップ、3mの崖下に転落、幸い2人共カスリ傷程度で無事でしたが車はペシャンコ。


車が崖から転落

 しょうがないドイツに戻り仕切り直すか、でもアフリカ大陸は目の前どうする、せめてモロッコは行きたいと思いジブラルタル海峡を渡った。モロッコはアフリカの入口、物価は安いし人はフレンドリ-、面白かった。だが、楽しかったのはそこまで、ドイツに戻り手持ち金も少なくなってきた。
 当時の情報ではアメリカが一番稼げるらしい、行こうアメリカへ。その時一緒にいた先輩と2人でニュ-ヨ-クへ飛んだ。遊んでいる余裕はない、飛び込みで日本レストラン「KEGON」を訪ねウエイタ-の職を得た、アパ-トも3人部屋で共同生活、とりあえず落ち着いたのでここで資金を貯めよう。居心地がいいのか半年くらい「KEGON」でお世話になった。その間、バスやレンタカ-で各地を廻ったりしました。日本を出て1年半が過ぎていました。
 いつまでもこんなことをしていられない、日本に帰ろうかと思うようになりました。また、自分の今後の進路も考えなければ!その頃は建築をやりたいと思うようになっていました。当時、兄が建築学科の学生だったので、ザグラダファミリア教会との出会いから建築をやりたいと相談すると、お前の頭では大学は無理、専門学校に行ったらどうかと言われた。
 少しお金も溜まったので憧れだったシルクロ-ド(中近東)を通って日本へ帰ろう!ドイツへ戻り、そこから陸路でヨ-ロッパ各地を経てトルコのイスタンブ-ル、ここがヨ-ロッパとアジアの境目、ここからシルクロ-ドが始まる(と、自分で勝手に思っていた)。
 当然、お金に余裕は無い。宿泊は木賃宿みたいな所1泊200円くらいだったかな、ダニに悩まされ、宿の主に文句言うと、白い粉を渡され「ベットに塗って寝ろ」と言う。しかし、翌朝も体の赤い斑点が増えていた(かゆい!)。すみません、本当はこれからが面白いのですがページに限りがあるとの事、省略します。こんな調子でいつ来るかわからないバスと電車を乗り継いでイラン、アフガニスタン(当時は平和でした)、パキスタン、インドへ行き、その先はビルマ(今はミャンマ-)当時国交が無いので入国できず飛行機を利用、東南アジアを廻って日本に帰りました。
 1年10カ月の放浪でしたが、出会った建築や歴史等がきっかけで、その後建築を志すことになりました。
 昔、夢は?と聞かれると、リュックを背負い中近東をもう一度歩きたい。とか言ってたことがありましたが、60才を過ぎ、腰は痛い、体力も無い、かなわぬ夢となりました。今は結婚以来海外に連れて行ったことのない妻とサグラダファミリア教会を訪れるのが夢となりました。