事務所紹介-37  『造建築工房』

高井 尚人

 事務所設立から10年の若い事務所です。ただし、職員は皆中年以上です。
元所属していた会社は、昔からの事務所でしたが残念ながら倒産。
お世話になっていた町村の仕事を放置できず、後先同僚達ととりあえず船出しました、荒海へ。
 事務所は知人の空き工務店を居抜で購入、西蒲区といっても誰も知らないのでアバウトに、高速黒埼パーキングの近くと記します。組合からは、はるか山のふもとから出てくるような言われ様ですが、スマートインターのおかげで市町村への高速フットワークは意外と良好です。
 職員は皆、建築の技術屋ですので当然構造、設備は外注です。仕事が集中しますと職員の増員をいつも考えますが固定経費の増加が恐ろしく、いつも躊躇し時が流れます。
 新潟の設計業界も近年プロポーザルでの発注への移行が進んでいます。零細事務所が少数精鋭などと、うそぶいている時代はすでに死語にちかく体制を整えた所が生き残っていくこととなるのでしょうか。
 組合諸先輩方に対し、どれほど特殊な仕事をこなしているわけでもない会社のいまさら紹介もなかろうと思い以後私事です。
私は、南区土着の原住民です。地方都市のはずれの田舎で生きていく手段として、建築の世界を目ざしました。時は、東京オリンピック、新潟地震復興と仕事があふれていた時代です、理系の人間でしたので当時は仕事に困らないのではとの選択でした。私の父は大学卒業後、飛行機の設計をしておりました。やがて敗戦を迎え地元新潟へ引き上げた後役人になりました。夢見てたどりついた職業は敗戦で無残にも消滅し、役人として生涯を終えました。「役人になろうか」と父に言ったことがありますが返事は「やめとけ」の一言でした。親と同じ仕事を子が選ぶことをいやがる者は少数です、やはり中途挫折が無念だったのでしょう。
 還暦を迎えた私は、建前は色々ありますが、いまだになぜ建築設計の道を歩み続けたのか明確な答えを見出せません、そして建築設計で財を成した人も私のまわりでは知りません。責任が重く、ストレスをかかえ低収入と工期に追われ、学生の頃甘く夢見た末の現実が今の私です。
 建設業界は、高齢化が進んでおり全産業に比べ若手は少ないそうです。
就業者が横ばいなのは年寄りがやめず若手が入ってきてないせいです。一度とりついた仕事はすがりつくしかないのでしょうか。